瀧川儀作伝 ―「マッチ王」辨三を継いで―/横田 健一
編者あとがきより
こんなにいい伝記が、こんなに身近にあったのか思う。有志と相談し、是非復刊しようと思い立った。
“燧石”の江戸の日々から、明治にはいってマッチが広く普及した。現在でこそ、マッチを見たり使ったりする機会がめっきり減ったが、明治のごく初期には、マッチは火をおこす大変貴重な輸入品で、その後には国内で生産されはじめ、やがてどこの家庭にも大きなマッチ箱を見かける、身近でありながらも重要な日用品となった。
先駆的にマッチ業をおこしてそこで身をたて、そのマッチ業をもとに社会に貢献し、日本の「マッチ王」と称されたのが、瀧川辨三であり、その事業を継承したのが瀧川儀作であった。瀧川二代にとり、マッチはまさに文明開化の“灯”のようであったかも知れない。
瀧川辨三は、士族より実業に打って出て、当時の欧米列強に対しては“士魂商才”で憶さず、至誠の心で接し、神戸の地でマッチ業をおこした。明治日本の近代化の一分野を担い、マッチを花形の輸出産品にしたてた。当時の工業製品輸出の乏しい日本にあって貿易を大いに改善させ、やがて「日本のマッチ王」と呼ばれるに至った。誠と質実を貫き、見事なまでにその生涯を全うした。
辨三の娘婿となり瀧川儀作がそのマッチ業を継いだ。原著『日本のマッチ工業と瀧川儀作翁』は五十年以上前に刊行されたもので、原著は、儀作翁に恩顧を受け、また翁を慕う後進たちから、米寿の祝いに記念の書籍として贈呈されるべく、儀作翁でも「後進の参考」になることを願いこれを了承して、書かれたものである。著者は日本古代史で名高い横田健一である。
瀧川儀作の人生は、義父、辨三と同様、誠実ですがすがしく、父を範とした生き方であったと考えられる。外資の圧力や戦争という人生の荒波にもまれながらも、明治・大正・昭和の激動の三時代を、実に堂々とした生涯を送ったことが読みとれる。
この伝記は、神戸財界史を中心とした「史書」でもある。つまり伝記が、歴史的な事実として展開している。その意味で、瀧川儀作の思想と行動は、現在におけるわれわれが、過去をしっかりと捉え、今後の日本や国際社会について考え、行動する上で、大いに参考になると思われる。
「滝川」マッチ工場では、待遇改善と福利厚生などで働くものの幸福実現を実践、またそれにより会社もより大きな成功を収めた。儀作自身も「マッチ王」として大いに活躍したが、その後、国際貿易競争あるいは協調において、アメリカやスウェーデンの先進、巨大マッチ資本と激烈な戦いをくりひろげなければならなくなった経緯は、人生の最大の試練であっただろう。神戸の地にあって、父、辨三とともに中国革命の孫文と親しみ、神戸の華僑と親交、実業のマッチで提携していたが、時代が日中戦争など日本と中国、国際社会の間に暗い影を落とす中で、儀作はそれを憂い戦前より日中をはじめアジア、世界の友好を唱え行動してきた。また戦後になると孫文、蒋介石夫人であった宋姉妹を通じて、台湾と大陸中国のイデオロギーをこえた関係改善を模索した。
日中戦争勃発の昭和一二年、儀作は貴族院議員に選出され、国政に参画。敗戦日本にあっては、日本再建のための施策、提言を行った。晩年まで、日本政府や自民党政権に対し多くの建設的な意見を述べてきた。
儀作自身の若いときに受けた教育の重要さから、若者への育英事業には大きな関心を寄せ、神戸など多くの学校の設立や運営に関与、教育に力を注いできた。儀作が関わった学校では現在も多くの若者を輩出している。また、奈良県吉野で生まれ育った儀作にとって、植林、治水事業は大きな力を発揮する分野であった。
もとは記念の贈呈本として刊行され、非売品であった原著ではあるが、これほど優れた伝記を、世の人にもっと知ってほしいとの思いで復刊を企画した。編集に際しては、巻頭の注記で述べたように、史書としての価値を損ねず、現代のわれわれが興味深く読めるよう大いに頭を使った。こうした努力が、幾ばくかでも実現していれば幸いである。なお、本著では年表、写真などで省略箇所があり、史料として読まれるのであれば、是非原著をひもといてほしい。
■□ 著者のプロフィール ――――――――――――――□■
著者紹介
横田健一(よこた けんいち)
歴史学、日本古代史。大正5(1916)年神戸生まれ。京都帝国大文学部卒。関西大名誉教授。著書に『道鏡』(吉川弘文館、1959)、『白鳳天平の世界』(創元社、1973)、『日本古代神話と氏族伝承』(塙書房、1982)など多数。平成24(2012)年没。
編者紹介(代表)
浜田泰彰(はまだ ひろあき)
※「浜」の漢字はまゆはま
滝川第二中・高等学校教諭。昭和36(1961)年姫路生まれ。龍谷大法学修士。著述掲載のものに田畑忍編著『近現代世界の平和思想』(ミネルヴァ書房、1993)、憲法研究所・上田勝美編『日本国憲法のすすめ』(法律文化社、2003)など。
こんなにいい伝記が、こんなに身近にあったのか思う。有志と相談し、是非復刊しようと思い立った。
“燧石”の江戸の日々から、明治にはいってマッチが広く普及した。現在でこそ、マッチを見たり使ったりする機会がめっきり減ったが、明治のごく初期には、マッチは火をおこす大変貴重な輸入品で、その後には国内で生産されはじめ、やがてどこの家庭にも大きなマッチ箱を見かける、身近でありながらも重要な日用品となった。
先駆的にマッチ業をおこしてそこで身をたて、そのマッチ業をもとに社会に貢献し、日本の「マッチ王」と称されたのが、瀧川辨三であり、その事業を継承したのが瀧川儀作であった。瀧川二代にとり、マッチはまさに文明開化の“灯”のようであったかも知れない。
瀧川辨三は、士族より実業に打って出て、当時の欧米列強に対しては“士魂商才”で憶さず、至誠の心で接し、神戸の地でマッチ業をおこした。明治日本の近代化の一分野を担い、マッチを花形の輸出産品にしたてた。当時の工業製品輸出の乏しい日本にあって貿易を大いに改善させ、やがて「日本のマッチ王」と呼ばれるに至った。誠と質実を貫き、見事なまでにその生涯を全うした。
辨三の娘婿となり瀧川儀作がそのマッチ業を継いだ。原著『日本のマッチ工業と瀧川儀作翁』は五十年以上前に刊行されたもので、原著は、儀作翁に恩顧を受け、また翁を慕う後進たちから、米寿の祝いに記念の書籍として贈呈されるべく、儀作翁でも「後進の参考」になることを願いこれを了承して、書かれたものである。著者は日本古代史で名高い横田健一である。
瀧川儀作の人生は、義父、辨三と同様、誠実ですがすがしく、父を範とした生き方であったと考えられる。外資の圧力や戦争という人生の荒波にもまれながらも、明治・大正・昭和の激動の三時代を、実に堂々とした生涯を送ったことが読みとれる。
この伝記は、神戸財界史を中心とした「史書」でもある。つまり伝記が、歴史的な事実として展開している。その意味で、瀧川儀作の思想と行動は、現在におけるわれわれが、過去をしっかりと捉え、今後の日本や国際社会について考え、行動する上で、大いに参考になると思われる。
「滝川」マッチ工場では、待遇改善と福利厚生などで働くものの幸福実現を実践、またそれにより会社もより大きな成功を収めた。儀作自身も「マッチ王」として大いに活躍したが、その後、国際貿易競争あるいは協調において、アメリカやスウェーデンの先進、巨大マッチ資本と激烈な戦いをくりひろげなければならなくなった経緯は、人生の最大の試練であっただろう。神戸の地にあって、父、辨三とともに中国革命の孫文と親しみ、神戸の華僑と親交、実業のマッチで提携していたが、時代が日中戦争など日本と中国、国際社会の間に暗い影を落とす中で、儀作はそれを憂い戦前より日中をはじめアジア、世界の友好を唱え行動してきた。また戦後になると孫文、蒋介石夫人であった宋姉妹を通じて、台湾と大陸中国のイデオロギーをこえた関係改善を模索した。
日中戦争勃発の昭和一二年、儀作は貴族院議員に選出され、国政に参画。敗戦日本にあっては、日本再建のための施策、提言を行った。晩年まで、日本政府や自民党政権に対し多くの建設的な意見を述べてきた。
儀作自身の若いときに受けた教育の重要さから、若者への育英事業には大きな関心を寄せ、神戸など多くの学校の設立や運営に関与、教育に力を注いできた。儀作が関わった学校では現在も多くの若者を輩出している。また、奈良県吉野で生まれ育った儀作にとって、植林、治水事業は大きな力を発揮する分野であった。
もとは記念の贈呈本として刊行され、非売品であった原著ではあるが、これほど優れた伝記を、世の人にもっと知ってほしいとの思いで復刊を企画した。編集に際しては、巻頭の注記で述べたように、史書としての価値を損ねず、現代のわれわれが興味深く読めるよう大いに頭を使った。こうした努力が、幾ばくかでも実現していれば幸いである。なお、本著では年表、写真などで省略箇所があり、史料として読まれるのであれば、是非原著をひもといてほしい。
■□ 著者のプロフィール ――――――――――――――□■
著者紹介
横田健一(よこた けんいち)
歴史学、日本古代史。大正5(1916)年神戸生まれ。京都帝国大文学部卒。関西大名誉教授。著書に『道鏡』(吉川弘文館、1959)、『白鳳天平の世界』(創元社、1973)、『日本古代神話と氏族伝承』(塙書房、1982)など多数。平成24(2012)年没。
編者紹介(代表)
浜田泰彰(はまだ ひろあき)
※「浜」の漢字はまゆはま
滝川第二中・高等学校教諭。昭和36(1961)年姫路生まれ。龍谷大法学修士。著述掲載のものに田畑忍編著『近現代世界の平和思想』(ミネルヴァ書房、1993)、憲法研究所・上田勝美編『日本国憲法のすすめ』(法律文化社、2003)など。